シュナイダー

シュナイダーについて

シュナイダーとは?

 「ハンネス・シュナイダー」というスキー指導者のことで、彼は世界初の体系的なスキー指導法を考案・普及させ、「近代アルペンスキーの父」として世界的に知られています。
 シュナイダーゲレンデは、1930年3月、このシュナイダー氏が来日し、菅平で初の雪上スキー指導を行ったことを記念して命名されました。 また、この時にシュナイダー氏が菅平高原を「スイスのダボス地方に似ている」と評したことから、根子岳山麓エリアは日本ダボスと呼ばれるようになりました。
 シュナイダーゲレンデの頂上には、これを記念するシュナイダー記念塔が建てられており、今もスキー指導の神はゲレンデを見下ろして微笑んでいます。 

ハンネス・シュナイダー物語

Hannes Schneider(24 June, 1890 - 26 April, 1955)
 シュナイダーは少年期からスキーの才能を現し、1907年12月(17歳)に生地チロル州アールベルク峠にあるサンクト・アントン(St.Anton am Arlberg)のホテル専属のスキーインストラクターとなりました。 そのインストラクター時代に、後にアールベルクテクニックと呼ばれるようになるスキー技術の開発と指導法の研究を行いました。
 彼の考案した指導法は、初心者をボーゲン(プルーク)からシュテムターンを介してパラレルターンへと導く、世界初の体系的なスキー指導法でした。 このアールベルクテクニックは今でも現代スキー技術の基礎を築いたと考えられています。

 シュナイダーはスキー指導の実績を認められ、第一次世界大戦中(1914-1918)はオーストリア軍のスキー講師を勤め、初心者の山岳兵を短期間で上級者へと教育したと言われています。
 戦後再びサンクト・アントンに戻ったシュナイダーは、この軍隊での経験を生かして技術と指導法に改良を重ねていました。

 そして1920年、ドイツのドキュメンタリー映画の巨匠であるアルノルト・ファンク博士(Arnold Fanck)と共に、アールベルクテクニックを集大成した映画 「スキーの驚異」(Wunder des Schneeschuhs 1920年12月公開)を製作しました。 タイトル通り、当時としては驚異的なテクニック満載の映画が反響を呼び彼のスキー技術は世界に広まったのです。

 第1作より11年後、このシリーズ第3作として制作された「白銀の乱舞」のクリップを右の動画でご覧ください。 同じ時期(1920-21年シーズン)にシュナイダーはオーストリア初のスキー学校であるアールベルク・スキースクールを設立し、教え子たちからは多くの有名スキー選手や有能なインストラクターが次々と育ちました。 また、後にファンク博士と共著で出版した映画と同名の教本は、アールベルク・テクニックのバイブルとなりました。

シュナイダーの来日

 1930年3月、日本の玉川学園から招かれ、旧ソ連経由の鉄路+海路という長旅で初来日を果たしたシュナイダーは、約1か月の滞在中、日本各地で精力的に雪上指導と講演会を行いました。その国内初の雪上セミナーの地が菅平だったのです。
 日本に初めて伝えられたスキーは、1910年に同じオーストリアから交換将校として来日したレルヒ少佐が伝えた、長い1本の杖を支えに内足荷重で曲がる滑走法でした。 シュナイダーが近代技術に近いアールベルクテクニックを広めたことで、スキーは雪上の移動手段から、急斜面でも安定して滑る事のできるスポーツへと、世界レベルで飛躍的な進歩を遂げました。
 これが、彼がアルペンスキーの父と呼ばれる由縁です。 シュテムターンなどの彼のテクニックは今でも世界中に受け継がれています。


アメリカへの亡命

 1936年、シュナイダーはスキー人気が高まりつつあるアメリカでデモンストレーションを行い高い評価を受けました。 しかしその帰国から1年半後の1938年にはナチス・ドイツがオーストリアを併合し、ナチへの協力を拒んだシュナイダーは政治的な理由で投獄されてしまいます。 それを知った各国の教え子たちがナチ高官に働きかけたことで、1か月ほどで釈放されたものの、シュナイダーはインストラクターの資格をはく奪され、スキー学校校長の座も失ってしまいました。
 そのシュナイダーの窮地に立ち上がったアメリカ人たちがいました。支援者の1人、スキー場開発をしていたハーベイ・ギブソンは、アールベルクテクニックを教えていた地元スキースクールを買い取り、シュナイダーがインストラクターとして働けるよう受け入れ態勢を整えた後、ドイツの財界人にシュナイダーが出国できるよう説得をしました。
 こうして1939年、シュナイダーは妻子と共にアメリカに亡命しました。 ニューハンプシャー州、ノース・コンウェイに拠点を移したシュナイダーはスキースクールを引き継ぎ、ゲレンデの開発とスキー指導に尽力しました。  第二次世界大戦中には祖国にいた時と同様、アメリカ陸軍山岳兵のスキー指導も行ったそうです。 65歳で心臓発作のために突然この世を去った時は、新しいゲレンデの開発とリフト建設計画の最中でしたが、彼の死後は息子ハーバートが事業を引き継ぎました。


不屈の指導者

 あまり知られていませんが、実はシュナイダーの右脚は1925年の骨折事故によって2センチ短くなり、特製のブーツを使用していたそうです。1930年に初来日した時にもそうだったでしょう。 そんな後遺症を周囲に感じさせることなく、祖国を離れてもスキー技術の普及と向上に情熱を燃やし続けたシュナイダーは、今もスキー史に語り継がれる指導者です。
 亡命後、初めてクランモア(ノースコンウェイの山)を滑り降りた時、シュナイダーは立ち止まり、息子にこう言ったそうです。
「なぁ、ハーバート、ここはサンクトアントンでもアールベルクでもない。だがすぐここを好きになるさ。」
参考: ウィキペディア他